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September 03, 2008

野心なき指導者の物語

野心のない者が組織のトップに立つと必ず陥るジレンマがある。
それが「モチベーションの持続の難しさ」である。

野心ある者がトップに立てば、そこには明確な目標があり、その達成に向けての確固たる意志があり、それはあらゆる困難な局面に対して立ち向かう原動力になる。
では、野心なき者がトップに立つとどうなるか。
野心がないがゆえに、彼は冷静に状況を把握できるかもしれない。野心がないからこそ、彼はリアリズムに徹した判断を下せるかもしれない。
ある状況において、組織にとって、あるいは組織が目指す結果にとって、最大公約数となる選択を取る、ということに関して、彼はある意味野心ある者より優秀かもしれない。
だがしかし、いかんせん彼には野心がないのだ。そのため、彼には「何が何でも到達したい終着点」というものが、そもそも存在しない。ゆえに、彼の下す決断は常に色濃い妥協の気配に包まれ、そこには難局を打開するために伴う痛みも、それを甘んじて受けるだけの勇気も存在しないだろう。彼にとっても、組織にとっても。

結果、どうなるか。
彼の行う最大公約数を求める作業は、その過程においてあらゆる公倍数を切り捨てていくだろう。公倍数を求める作業は痛みを伴うが、公約数に関してはその限りではない。「痛みなき現状維持」に腐心し続け、「痛みを伴う改革」という手段が取られることはない。「対処が容易な課題」が次々と解決されていく一方で、「対処が困難な課題」はことごとく後回しにされるだろう。
やがて、限界が訪れる。「対処が容易な課題」を駆逐しきったまさにその瞬間、彼は「対処が困難な課題」の存在と真っ向から対峙することになる。そしてそのとき、彼はそれに対抗できる手段など持ち合わせてはいないのだ。
ゆえに、逃亡する。自分より適任な者が、自分には取れない手段によって、その困難を打破することを願って――半ば自虐的に、あるいは希望的観測をもって、彼は自らトップの座から退くのである。

組織のトップに立つ、ということは、そこに立つ者にとってどういう意味を持つのか。
野心ある者にとっては、自らの野望を達成するための格好の舞台となるだろう。
野心なき者にとってはどうか。
彼は「望まれれば」、そこに立ち続けることを選択するだろう。彼の潜在能力をいかんなく発揮し、リアリズムと妥協に満ちた「消極的な勝利」を繰り返すに違いない。
しかし、ひとたび彼が「望まれなくなった」なら、彼にはもはやそこに立ち続ける意味などなくなるだろう。彼にはトップに立って至りたい目標が存在しない。彼のモチベーションはそこにはない。「人に望まれる」ことそのものが彼にとってのモチベーションであり、それがなくなってしまえば、彼にはもうトップに立ち続ける理由がなくなるのだ。
あるいは、彼は自らが「望まれなくなる」ことを敏感に察知するかもしれない。彼は自ら望んでトップに立っているわけではない。だから、彼は自分の行うことに対しても、ひどく客観的な視点を持つだろう。組織のトップとしての彼の一つ一つの選択を、彼はまるで他人事のように見守り、そして見極めるだろう。それが将来的に望まれるものかどうか、を。
あくまでリアリズムに徹した最後の選択が、「自らが退くこと」という一見不本意なものになったとしても、彼はそれを悲観したりはしないだろう。なぜなら、それは彼が選んだ「最良」なのであり、彼自身が予測していた「結末」に違いないのだから。

人を振り回すことと、人を導くことは表裏一体だ。紙一重、とでも言おうか。
真の指導者というものは、きっと人々を散々に惑わしながら、彼らがそれと気づかないままにあるべき方向へ導き、同時に自らも惑い、苦しむのだろう。
「本当の正義というものは、決して恰好のいいものでは無いし、そしてそのために必ず自分自身も深く傷付くものです」
やなせたかしが自らの著作「アンパンマン」に向けて語った言葉だが、今回の福田総理辞任騒動において、これほど相応しい言葉はないと感じる。
傷つくということは痛みを伴う。痛みを享受するには勇気がいり、勇気を持つには理由がいる。理由とは、まさに野心。

福田総理は自らの正義に傷ついたのだろうか。
これは他人事ではない。
2008年9月1日の夜の、辞任会見の壇上に立つ彼の悲壮な姿は、明日の私たちの姿なのかもしれない。

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